二条為冬卿 和歌


 二条為冬は建武二年(1335)十二月十二日、竹之下の合戦において佐野原の地で討死し
「増鏡」「太平記」「梅松論」の歴史書にその名を残している。

しかし、その為冬は藤原定家(御子左家)から、為家、為氏、(二条家)、為世、と続く歌道家の血脈を継ぐ歌人である。

為世の末子で「嘉元年間の生まれか」とされる為冬が三十余年の生涯で詠んだ和歌です。

現在活字で刊行されている文献で為冬作とされているのは、「花十首寄書」(十首)、「亀山殿七百首」(十六首)、「飛月集」(二十二首)、「勅撰集」(二十首)、「私撰集」(十一首)、「題林愚抄」(二十七首)、「前参議為冬卿集」(二十六首)を確認しました。いくつかご紹介させていただきます。


 新後拾遺集は永和元年(1375)足利義満の執奏により、後円融天皇が為遠に勅撰集撰進の命を下したによる。
為遠は何か不満があり、遅々として進まず、撰半ばにして永徳元年(1381)年に没した。(41歳)そこで、為重(57歳)に撰集を継ぐように命じられ、至徳元年(1384)の12月、ようやく完成する。為重(60歳)である。

 為重は為冬の子である。1325年生まれの為重はは建武二年(1335)11歳にて父(為冬)を失い為定の子となるが、為定に為遠が生まれると、為遠を補佐する立場となった。

16歳の差があっても勅撰集の撰者の命は二条家の嫡男に下る。

為遠が死して後、やっとのことでまわってきた勅撰集撰者の地位である。
為重は父、為冬のの歌を盛り込んだ。
巻七以降は確実に為重の撰といわれています。
これらの歌には為重が40年間、父なき子として耐え生き抜いてきた思いの証をみるものであります。

父、為冬が討死した佐野原の地に一番やってきたかったのは為重ではないでしょうか。

 為重は完成翌年、至徳二年(1385)年2月15日に押し入った者に殺されてしまう。

為重の子、為右が残ったが、足利義満により殺されたとも言われています。

ここで二条家の血統が絶えた。


季節 和 歌

よそまでは さそひもはてぬ はる風に

  木の下ばかり 花もちりつつ

遠くまで吹いて行ってしまっつたんでしょうか、春風は木の下には、残った花が(風もないのに)盛んに散っていますよ

春風の よそにさそはぬ 花ならば

  木のもとのみや 雪と積もらん

春風をさけて咲く花であればこんなに木の下にだけに雪のように花が積もっているでことはないでしょうが

青葉にも しばし残ると しみ花の

  ちりてさながら しげる比かな

青葉になっても花が残っていたのを見たけれど、それも散って、もっぱら青葉が茂頃だなあ
 秋
あくがかる 心のはてよ いづくまで

  さやけき夜はの 月にそふらん

身からはなれた魂はどこまでもゆくでしょう、清らかな夜の月まで行ったのでしょうか
 秋
空にのみ たつ河霧も ひま見えて

  もりくむ月に 秋風ぞ吹く

空にまで立ち上がる河霧、瞬霧が切れて月の光がさす、秋風がふいたよ
 冬
むら時雨 晴れつる跡の 山風に

  露よろもろき 峰の紅葉ば

ひつしきり強くふって時雨は止み、山風が吹く、霧を晴らすよりも早くに紅葉の葉をはらはらと散らしはじめる
 冬 分けゆけば 野辺の小篠の 上よりも
     袖にたまらで ふる霰かな

野中の細い道を小篠をかき分けて行くと、(冷え込んできて)霰が音を立てて降り出した。霰が私の袖に溜まる暇もなく、道を急ぐ、ふりしきる霰の中を

 恋  
かねてより 人の心も しらぬ世に

  ちきれはとても いかか頼まん

 予め人の心も分からない世の中で、契をしたことでどれほどの頼りとなるでしょう。
 恋  
思い出づる 雲まの月の 面影は

  またいつまでも わすれかたみぞ

 おもいだすよ、雲の間から出る月を見ると、その面影は何時までも忘れられない人なのよ
 雑  
塩風の あら磯かけて おきつ波

  猶よせかくる おとのひまなさ

 波を含んだ風が荒磯をめがけて吹き、沖の波が岩に寄せる音、ひっきりなしに響く
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