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主祭神 |
左近衛中将贈三位 |
藤原朝臣二条為冬卿 |
(ふじわらあそんにじょうためふゆきょう) |
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配祀神 |
従士十二名 |
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藤原定家 の玄孫にあたる藤原朝臣二条為冬卿です。二条為冬卿は和歌の家御子左家に生まれました。
生年は、一説に乾元二年(1303)といわれています。 二条為世の末子で後醍醐天皇の側室となり、尊良親王・宗良親王の母となった贈従三位為子の弟です。
為冬は幼少より和歌の才に恵まれ、「花十首寄書・新後拾遺集」などに入集しています。建武二年(1335)足利尊氏が後醍醐天皇に背き鎌倉で挙兵したとき、二条為冬卿は 尊良親王股肱の臣として公家大将となって東下しました。
しかし、箱根竹之下の戦いで味方の大友・佐々木の寝返りで敗れ、佐野原へ退いた後ここで戦いで討ち死にました。建武二年十二月十二日のことです。(太平記)
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沿革
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戦いの後、地元の人々が亡骸を埋葬し、十三の塚を建てて弔い、中でも為冬卿の塚を将軍塚と呼んで崇敬してきたと 口碑がありました。この故事に従って明治九年に佐野原神社が創建されました。
始めは、建武中興以来の王政復古の流れの中で明治政府主導の御陵墓調査が中心でした。この将軍塚の他に現小山町の白旗神社が有ってどちらも二条為冬卿の墳墓の地を主張していました。その是非を調査するために、明治七年明治政府の教部省は伯爵佐々木高行・伯爵東久世通禧を派遣して調査させました。さらに明治八年には、静岡県令子爵大迫貞清は部下をしばしば白旗神社並びに将軍塚を調査させました。
中央のこうした動きに呼応して神社創建のために立ち上がったのが、平松新田服部大八・須山村渡邊隼雄・佐野村岩崎佐十郞・三好維堅・伊豆島田村水口伝蔵の五人です。かつて、後醍醐天皇による建武中興は天皇中心の政治を取り戻そうとしたものでした。
そして明治維新によって実現した王政復古は数百年前の理想の再現でもありました。そのため、建武中興に尽くした皇族や武将を祀る神社が明治になってそれぞれの縁の地に次々に作られました。
しかし、大いなる功労者為冬卿が祀られないばかりか、その事実さえ十分に知られていないことに、土地の人々は大きな悲しみを感じていたのです。服部大八を中心とする懸命の努力がやがて大きくな力となり、平松新田将軍塚に佐野原神社創建の指示が明治政府からありました。と同時に、十二の塚についても古跡を毀損しないように保存することが決定指示されました。明治九年二月二十七日のことです。 |
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矢倉沢通見取絵図 |
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道中奉行が文化元年(1806)の冬にことごとく五街道およびそれに付属する道中の絵図を幕府の書庫に納めました。 |
その絵図の中に「二条為冬卿之古跡」が記されています。また周辺に鎮座する八幡宮(平松八幡宮)・山神(山神神社) |
も記されています。 |
この絵図に記載していることは、昔からこの地に「二条為冬の古跡」があった証拠になります。 |
絵図には、二条為冬卿の層塔の絵で記されています。現在、佐野原神社の二条為冬卿の墓所も層塔でお祀りしています |
大変貴重な絵図といえます。 |
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矢倉沢通見取絵図 全二巻之内 第二巻 発行所:東京美術より引用 |
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