地蔵尊




鎮座地   静岡県裾野市平松 350番地

ご本尊    作衛門塔・地蔵菩薩・巡礼供養塔

例祭日   七月第三日曜日

                                
由緒

 
本地蔵尊は三百九十年前、明正天皇寛永十九年徳川家の時代に創立せられたるものなり。

当地は住吉に於いては佐野ヶ原と呼ばれ荒涼たる原野たりしに三百余り年前、茶畑の住人作右衛門当平松に来り開拓し平松新田と開稿せられたりとの古老の言いつたえなり。

 我々祖先は作右衛門を当平松の開祖とし、此処に祭祀し例年旧暦七月二十三日を祭日と定め開祖の偉徳を永遠にたたえ、村の平和発展を祈願し、村民一同尊敬の的なり。

 然して又本地蔵尊は子育ての霊験あらたかであり、婦人の信仰は特に厚く「子育てお地蔵さん」として村の人々に親しみられています。

 また、現在おまつり当日は、子供神輿が地域を巡回し、子供達による相撲大会がおこなわれます。地域の皆で盆踊りを行い、最後に花火大会で終わり地域の交流を深めています。

 令和二年七月二十三日に地蔵堂落慶法要と同時に作衛門塔、地蔵菩薩等に開眼法要を行った。


※上記の写真は旧地蔵堂の写真



平松区の地蔵堂について

 佐野原神社境内にある平松公民館、その一番南側に地蔵尊の御堂があります。

何やらかなり古い造りの「堂宇」(建物)ですが、実は大変歴史の古いお堂です

 江戸幕府が日本全体を治めていた時代の絵図(矢倉沢通絵図)にも地蔵堂が乗っています。

 平松新田の絵地図には「卍 字座頭塚地蔵堂」と書かれています。近くには佐野原神社が創建される前の「二条為冬卿之古跡」(将軍塚)や「八幡宮之杜」(平松八幡宮)が載っています。明治の初めに書かれた「平松大絵図」にも載っています。


矢倉沢通見取絵図 全二巻之内 第二巻 発行所:東京美術より引用


 この地蔵堂は、元々絵地図にも有るように街道沿いにありましたが、昭和30年代に道路の拡張工事に伴い現在の佐野原神社境内に移転しました。
それからでも既に60年あまりがたっています。
現在は、平松本村上中区が管理する「子育て地蔵尊」が御本尊です。

 今は、建物全体の傷みが進み、雨漏りがしていつ倒壊してもおかしくない状況になってしまいました。
修復するには大変な費用が掛かります。貴重な文化財ではありますがこのままでは危険なので、平成30年にお堂を解体しました。
令和二年七月二十三日、地元の耕月寺の住職により、お堂完成の落慶法要と地蔵菩薩等に開眼を行いました。

 

「字座頭塚」と書かれているのは地元での通称という意味です。

平松新田では「座頭塚地蔵堂」と呼んでいたのでしょう。



「箱根用水史」- 佐藤隆 著

 「平松新田」は茶畑村を元村とする開発地でした。茶畑村の農民だった作右衛門が、自分に従う農民たちと共に水もかからない荒れ地を開墾しました。それが平松新田です。新田といっても箱根用水ができ、寛文十一年(1671)三間堀が作られた水田になるまでは畑でした。

 お堂の中には「平松新田開発人 作衛門塔」があります。これは石に刻まれ庚申塔などに似せて、平松新田の開発人とし、神格化し、尊崇したものです。

 中央に作右衛門の地蔵仏が刻まれ、右側面に寛永十九年四月(1642年)、左側面に平松新田開発人作衛門塔と刻まれています。作右衛門はその理由ははっきりしませんが藩の施策に背むいたからと思われる理由で処刑され、その妻子・配下の農民すべてが元村にお預けとなりました。

 平松新田農民にとっては、たとえ貧しくとも自分たちを守ってくれた作右衛門の処刑を悲しむ気持ちが「作衛門塔」の建立につながったでしょう。



※「作右衛門塔」・・・実際の石塔には「作衛門塔」と彫られています
※地蔵菩薩3体 巡礼供養塔(宝暦二年(1752))があります。

 
 
旧 地蔵堂内の平松新田開発人 作衛門塔をお祀りしていた位


現在の地蔵堂内の平松新田の開発人 作衛門塔
 






落慶法要 開眼の様子  地蔵堂 

 


 

地蔵尊入り口 旧地蔵堂内

巡礼供養塔   作衛門塔   地蔵菩薩






こどもおみこし 旧地蔵堂にて念仏
 


 


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